アフガニスタンの大地
カブール到着前、人と荷物を満載した旅客機からアフガニスタンの地を見ると、白い頂の高く険しそうな山々、「不毛の大地」という言葉が見る者の頭に浮かぶであろう広大な褐色の大地が続いていた。その風景はやけに長いこと見ることができた。誤解を恐れずに言えば、人の住む土地ではないようにすら思えた。「生きていくだけでも困難に思えるこの地で、人間は戦闘の歴史を長年繰り返してきたのか!?」信じがたいような、呆れていいのか、感心していいのかわからないような驚きと疑念が入り混じった感情が湧いた。だが、このなかなか戦況が進展しない土地柄こそが長年戦闘が繰り返される要因の一つかもしれない。
この大地で実際にどれくらい農作物が収穫されるのかわからない。私達が見に行った農村ではあまり大きくないトマトが青いうちから収穫されており、ニンジン、トウモロコシ、ほうれん草、小麦、玉ねぎ、等が収穫されると聞いた。
写真と笑顔と戦争の痕跡
現地視察、物価調査、大学やカブール市内でのインタビューを行った際に人々にレンズを向けた。雑誌やテレビの報道から予想していたように、子供から老人まで彼らの表情は不思議なくらい明るく、目を輝かせ、いい笑顔になる。日本で私はなかなか撮れないはずの「とびきりの笑顔」がそこに溢れていた。カメラを持っていると自ら撮ってくれと身振り手振りを交えながら言ってくる。しかも写真がもらえるかどうかは二の次なのだ。女性でなければ誰もが喜んで被写体になってくれると感じずはいられなかった。
いたるところで「戒厳令」さながらの物々しい武装警備を目にし、様々な姿で残る戦争の痕跡を見た。東西の軍用銃カラシニコフとMー16が混在しており、実に多くの国々で製造された兵器の残骸がこの国の歴史を端的に物語っていると思った。
しかし、対照的に思える彼らの「とびきりの笑顔」は何なんだろうか?帰国後も考え続けた。戦争やタリバンの抑圧からの開放感、明るい将来への期待感、戦争体験で「死」を身近に感じることから生じる「今を生きる喜び」の表れ。その瞬間を写しだす写真に対する彼らの思い。これだけ書いておくと、かっこいいような気がするのだが、タリバン時代には写真撮影やカメラの所有すら禁止されていたのではないだろうか。聞かなかったけれども。アルバムどころか、写真もあまり持っていないと思う。写真撮影はとても珍しいことで、好奇心、憧れを掻きたてられるのだろう。
凧揚げとタリバン
アフガンでは凧揚げが復活していた。タリバンの時代は禁止されていたという。通訳の青年によると大人も凧を揚げて遊ぶようだ。大人が凧揚げやるか!?と思ったが、自分もここに住んでいたらやりそうな気がしてきた。なぜ凧揚げが禁止されたのか非常に気になったので青年に訊くと、しばらく黙って「わからない」と答えた。正直な奴だ。適当に答えるのはよくある話。みんなで議論したら戦争と関係があるのではないかという推論が出た。なんとも気になってしょうがなかった私は後日凧揚げを見て、またしつこく訊いた。「俺は知りたいんだ。なんか理由があるはずだ」と。彼はしばらく考え込んで「もともとここにあったものではないから」という意味のことを言った。それが私には十分な答えであった。「タリバンの抑圧」が象徴されているのではないだろうか。
写真の無い記念撮影
ホテルの外で夜景を見ようと暗がりのなかを一人で歩いていた時、突然若い男達に囲まれた。私は借金をして買ったばかりの一眼レフのデジカメを大事そうに両手で持っていた。が、驚いたことに「写真を撮ってくれないか」と頼まれた。私のカメラで。恐らく結婚式でホテルに集まったのだろう。確かに撮ったが写真をくれとせがまれた記憶がない。デジカメの液晶に写った映像を見て満足して帰って行った。少なくとも私の記憶ではそういうことになっている、彼らにはいつまでも色あせない記念写真の鮮明な記憶があるだろう。夜で外で撮った写真だけど、ちゃんとフラッシュを炊いたから。
青空教室
私達はそこに教室があったのだろうと思い込んでいた。青い空のしたに聳える岩石、その麓に土の塀で囲まれた傾斜のある土地。ただっ広く、なにかの遺跡のようにすら思えた。今も小学校低学年くらいの子供たちがここで授業を受けるという。驚きのあまりどうやって授業をするのか見当がつかない。訊くと、黒板を持ってきて、生徒はシートを敷いて座るとのこと。青い空、岩山を見上げ、遺跡のような教室を見て感動した。集まって来た子供達みんなに授業の様に座ってくれと頼んで写真撮影。
もてなし
滞在中に何度も予期せぬ「もてなし」を受けた。ある村を訪れた時、トマトの収穫をしていた男達が畑で昼食をとっていた。突然の訪問者である私達は、通訳の青年に畑や収穫物を見せてもらえるか訊いてもらった。彼らは快く了承し、昼食まで勧めてくれた。私達はブランチを食べてきたばかりで満腹だと言って遠慮したが、一緒にブランチを食べてきたはずの通訳の青年が慌てて食べだした。驚いて「まだ腹がへっているのか?」と聞くと「食べないと彼らが怒る」と答えた。彼が英語で言った「怒る」は「気を悪くする」の意だろうと思ったが、このアフガニスタンの青年が私達の為に無理して食べていることを無視できない。日本人の誰か一人でも一緒に食べるべきだ。私は困った。食後に年代物のワゴンの荷台に後ろ向きに乗って悪路を長時間揺られ、吐きそうだから車を止めてくれと言い出す前に何とか着いた矢先。正直に言うと、彼らが食べているナンが畑仕事後の手で千切られていることも気になった。しかし、日本人代表として選ばれるのは私しかいないと即座に悟り、喜んで食べたい振りをして食べた。お世辞抜きで美味しかった。自分で美味しく感じることにも驚いた。どんな味か?それは「味わった者だけの特権」として教えられない。
数人分の飲み物を買いに行った小さな店でのこと。店主と話込むと、「貴方は私の客だから金は払わなくていいよ」と言われた。私はとても喜んで「気持ちだけで十分、とてもうれしい」と言い、喜びと感動をできるだけ表現するよう心がけて握手をして金を払った。失礼でなかったのならばいいのだが。
街角の絨毯屋の前で待ち合わせをしていた2人は絨毯屋にお茶に誘われ、「絨毯は買わない」と言って断ったが「かまわないから中で一緒にお茶を飲んでいけ」と再三の誘いでお茶をごちそうになり、店のおじいさんにアフガニスタンの大昔の紙幣などを見せてもらったそうだ。